英会話の途中過程
「時間的都合を理由にしたり、C社の裁判引き延ばし策は巧妙だった。
口頭弁論も月一回から2カ月に一回と、遅れた。
裁判所が時間稼ぎの場を与えているようなものだった。
C社はその間、裁判所外でオーナーの懐柔や切り崩しにも狂奔していた。
彼らにとって、裁判は捨て石だったかもしれない。
狙いはむしろ、持久戦に持ち込んでオーナー側の疲弊を待ち、それによって「和解」に持ち込み不法占拠を合法化する目的ではなかったか、という気さえする。
Tは1日も早く裁判を終わらせるべく、S、Tの証人喚問を求めた。
Sについては、第5回目(93年7月19日)、6回目(同9月20旦の口頭弁論で実現がある。
現場では、A棟管理組合理事会の「和解」路線への回帰、その正常化を経て3棟協議会再開、というめまぐるしい展開をみていた時期である。
第5回目の口頭弁論での証人尋問は被告側尋問が主で、原告側尋問は15分という限られた時間のなか、Tは、C社が宅地建物取引業の免許を受けてないない事実を指摘。
Sの口から、「C八王子」の管理・運営はC社、入居者募集はした。
Tも、「相手の女性弁護士も、よくぞ必死に、2年間持ちこたえたものだ」といって苦笑した。
不法占拠者を追いつめた現場主義Sは、被告側尋問で「C八王子」の経営に乗り出した経緯を「多くの方に依頼きれ、社会正義のために行っている」と答えた。
Tが、誰に依頼きれたのかと具体的に迫ると、T、網谷(A棟管理組合初代理事長)、網谷の顧問弁護士らの名前を挙げたが、「細かいことはわからない」と回答を避けた。
もともと、したたかなC社を相手に法律論争だけでは時間を空費すると見ていたTには、もう一つの戦術があった。
それはR商法が内包するつるみの構造や、Sの関与の内容、素性など、彼らが描いた壮大なる詐欺ドラマの全容を裁判所に知らしめることである。
前掲の準備書面も、「C八王子の企画と販売は、詐欺商法の手口であり、原告らはその被害者であS通商が行っているという回答を引き出し、Sの本拠であるS通商の関与を裏づけた。
Sに対する証人尋問は、その意味では重要なポイントであった。
第6回口頭弁論での尋問では、R商法の儲けのシステムをSが継承しようとしている点や、Kグループとの関係などを質した。
Tは、C社を壮大な詐欺ドラマの最後の仕上げ役、と見ていた。
Sの登場は表面的には92年5月。
しかしそれ以前の、問題の端緒となった91年10月の「配当支不法占拠音を追いつめた現場主義Sは随所で「質問の意味が解らない」と回答を避けた。
だが、2度にわたる尋問でSは、C社を引き受けた時期を「配当支払猶予」開始直前の91年8月、当時「R・C」の商号であった同社の全株をTとの話し合いで譲り受けた点を認めた。
少なくとも、Sが「配当支払い猶予」の決定に関与しうる立場にいたことを窺わせるものだった。
C社は、オーナーに対するRの未払い賃料、修繕積立金の支払い債務の引継ぎを拒否したまま、管理・運営という美味しいところだけを横取りした。
それがRの収入源を奪い、オ‐ナ‐に対する債務の踏み倒しという結果を生じさせた。
その一点を以てしてもオーナーに対する責任は免れるものではないとしたものだ。
「R商法に潜む癖つるみの構葵Sの素性人脈こういう背景説明が支払払い猶予」と、それに続くRの倒産も、SとTの共同謀議の下、巧妙に描かれたシナリオではなかったか、と推定していた。
彼らはRの経営不安を知るや、それならば、と本来オーナーに支払うべき「配当」資金を横取りし、なおかつ物件の占有管理を委譲させ、Rが確立した儲けのシステムだけは継承できるようにしておく。
そのライベヅクスを倒産させ、オーナーからの未払い賃料の請求を現実的に不可能にする企んだ、という見立てである。
尋問にあたっても、その推定を裏付ける証言を引き出すべくC社は裁判の最終局面で和解案を提出し、執勧に裁判の引き延ばしを画策した。
裁判長はこれを認めず、94年2月28日、前述のような判決を下す。
判決の内容は、原告であるオーナーたちの圧勝といってよかった。
ただ、わずかに不満も残った。
C社が反訴した「管理費の不当利得」が一部認められていたからだ。
判決は、C社に管理費等の徴収権限はないとしながらも、オーナー側が実際に負担すべき費用の支出を免れるのは公平の観念に照らして不当であるから、その限りでカレッジタウン社はオーナー側に不当利得の返還を請求できる、とした。
しかし、オーナー側にしてみれば、C社が支払った公共料金などは、もともとはオーナーに帰すべきマンションの賃料収入とホテル運営の収益から支払われたものであり、C社自身の支出とは認められない、と見なしていた。
それでも、C棟裁判の一審判決が持つ意味は大きかった。
併行して行われていたA棟裁判、また管財人との共同訴訟においても、C社の主張はC棟裁判でのそれと同じ内容である。
司法の独立性はあるものの、事実と主張が同じなら、後の裁判が先行裁判の結果を重んじがちなことは司法界の常識である。
事実、時期こそ遅れたが96年5月20日にA棟裁判で、同8月5日にはC棟控訴審でも勝訴判決を勝ち取った。
管財人との共用部分明け渡し請求の共同訴訟は同年10月15日、和解の形で決着をみた。
この時点での和解はもはや実害はなかった。
A棟裁判の判決後、C社は夜逃げ同然に施設から脱走し、不法占拠状態に終止符を打っていたからである。
次々に裁判を提起したC社包囲網にも、網が綻びかねない危機があった。
というより、包囲網が字義通り機能しはじめるのは、むしろ「新C管理組合」が発足して以降のこと、といったほうがいいかもしれない。
C棟一審判決から2週間後の94年(平成6年)3月3日、C社はC棟オーナーにそれぞれの所有室の鍵を送りつけてきた。
Mはその直後、現場を点検するため、2年前に実力で解放したC棟231号室を訪れた。
ドアには、当時取り付けたA棟管理組合、C棟協議会、F社の現地事務所を示す看板が残っていた。
「あの時、みんなで決定したとおり一緒に裁判を進めていれば、今年中にC問題は一気に解決したのに……との熱い思いが胸をよぎる」新C管理組合の「管理組合通信号」(94年3月28日)にMは、無念の思いをしのばせて記している。
無理もない。
C棟裁判で勝訴判決を得たとはいえ、ほぼ同時に、というより裁判提起の時期でいえば一カ月ほど先行したA棟裁判は大幅に遅れ、この時点でようやく本格的審理がはじまるという状況だった。
判決を得るのは、C棟判決から遅れること−年半、96年5月20日である。
裁判提起から3年半の時間を要した。
時間の大半を浪費したといっても差し支えない。
いうまでもなくA棟管理組合理事会および弁護団の迷走がもたらした結果である。
それがまた、C社包囲網を完壁ならざるものにしたのである。
振り返ると、2度にわたり3棟協議会路線を後退させたA棟管理組合理事会、弁護団の迷走は、裁判提起の時にも見られた。
A棟が東京地裁、C棟が地元である東京地裁八王子支部と、裁判提起の場所が異なるのが、その一端を物語る。
一緒に現地の八王子に起そうとの申合せを破り、一ヵ月先行したのも、実は戦国大名の先陣争いのように功名心に駆られて、と思えばそう思えなくもない。
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